霊能力に頼り過ぎる弊害霊能力に頼り過ぎる弊害- 自分で、見えて、聞えて、話せたら、その人を信じなさい - 高橋信次先生が、霊能力を持っているという人を信ずべきかどうかについて、いちばん先に言われたのがこの言葉です。 その人が、自分で霊界を見る力があり、また、霊界の人と語り、聞く力がなければ、霊能者を信じてはいけないというのです。 という事は、結局は霊能力だけに興味を持って日常生活をおろそかにするような信仰はしてはいけないという事なのです。 私(園頭先生)が、高橋信次先生に初めてお逢いしたのが昭和48年3月でした。 私より一ヵ月前に帰依した京都のTという人がありました。 この人は以前に真言密教をやっていた人です。 この人は、人を見ると、 「あなたの守護霊がここに立っています。こう言っています。」という人でした。 だから忽ちのうちに「○○先生は何でも見える」と評判になり、京都でも大阪でもその先生の話だという事になると、一杯人が集まりました。 その様子を見ていて、これは危険だと思ったので昭和48年8月にその講師に注意しました。 「○○さん、あなたは人を見ると、守護霊がどうだとすぐ言っているが、それはあなた自身のためにも、また、人のためにもならない事なのであるから、やめた方がいいですよ。」 T講師は、私(園頭先生)が一ヵ月後に遅れて高橋信次先生に帰依したし、私は自已宣伝するのは嫌いだし、いつも遠慮する方ですし、また、話すのが苦手で自分から「私の話を聞きなさい」とは言えないタチですから、私がT講師に嫉妬して中傷したと受取ったようでした。 「いや、私は高橋先生からこれでいいと言われているから、このままやります。」 と言いました。 高橋信次先生が、このようなやり方をいいと言われる筈がないと思いながら、「まあ、時期を待つしかない」と思っていました。 それから半年位した時に、N先生が私に、 「園頭さん、T講師には困っています。 T講師は守護霊が見えると言っているが、言っている事がさっぱり当らんのですよ。ある人が病気の個人指導に行ったら、梅干を二つ黒焼きにして道路に、人が知らないうちに埋めなさい。 そうすればそれを踏んだ人が病気になってあなたの病気は治る、という指導をしたというんです。 自分の病気を人に移して自分の病気を治すというのは愛ではないでしょう。こういう事が一杯あって困っているんですよ。」 と言われたのでありました。 それで私は、T講師に、あなたに守護霊が見えるというのは嘘だろう、と言うわけにいかないから、 「守護霊がこう言っているという言い方はやめなさい。」 と注意したのですが、私の言う事は聞かないのです。 とある時、私とN先生がいる前でT講師は高橋先生から注意されたのです。 「Tさん、あなたはすぐ守護霊が見える、こう言っているというが、それはカンニングになるのだからやめなさい。」 高橋信次先生も愛が深く、人の欠点をズバリとは言われない方でしたから、T講師に、 「あなたに守護霊が見えるというのはウソだ。」 とは言われませんでした。 正しく見る霊能力を持っている人は、人から聞かれもしないのに、自分の方から先に「守護霊がこう言っている」という事は言わないのです。 守護霊が言っている事であっても、直接「守護霊がこう言っている」という言い方はしないのです。 私たちがなぜ肉体を持って、魂の修業のためにこの地上界に出て来るのかというと、 肉体を通して色々な環境の中で、自分でしっかり考え、且勉強し、それを実践する事によって魂を偉大に成長させるためです。 魂は、正しく考える、正しく思う、そうして正しく見る、正しく生活する、正しく仕事をする、という事によってのみ成長していくのであります。 ですから、しっかりと考える、しっかり思うという事をさせずに、いきなり、「守護霊がこう言っているからこうしなさい」という事は、その人の魂が成長するための第一最高の手段を奪ってしまう事になるのです。 その事がなぜ起ってきたのか、という原因を自分でしっかりと考えさせずに、ただ、こうすればいいという結果的な方法手段だけを教える事はその人の魂の成長をさせない、という事になるのです。 だから、高橋信次先生が「それはカンニングだ」と言われたのです。 霊能力がないのに霊能力があるといった人も、また、自分で解決すべき問題を自分でやらずに、霊能力者に頼って解決してもらうとした人も、どちらもカンニングを続けなければ自分の立場を守れないという事になります。 霊能がないのに霊能があるように見せかけるのは、一番罪が深いが、霊能があるといってもその霊能で何でも分かるわけではないし、自分の知らない事を聞かれた場合に、知らない事を知らないという勇気がないと、知ったふりをしてウソを言う事になります。 霊能力者の言う事が当ったり当らなかったりするのは、霊能力には限界があるからであり、霊能者を万能と考えている人は、霊能者のウソにふり廻されていても、それをホントだと信じ込んでいるから結果はあわれです。 霊能力に頼るという事は信仰で一番大事な、自己の確立が出来ないという事になります。 正法は、どんな問題があろうとも、その人が自分で考えて自已確立して行く道を教えるものでありますから、その人を自分に頼らせてその人から判断力を奪うというような事は絶対にしません。 見えず、聞えず、話せなくても、知った事を実践して智慧としていくという生活をしていれば、自然に天上界からも導かれるようになるのです。 心に歪みを作ったままで霊能者に頼る事は、知性も理性も働かさないという事になりますから、少しも魂は成長しないばかりか地獄行きの種子をつくる事になってしまいます。 「霊能者を万能と信じてはならない。 その人がどの範囲の霊能を受けられるかは、その人の心の段階による。 この世とあの世の法則は同じである。 如来界の人のカを受けるには、その人が如来界と波長が合う心を持っていなければいけないし、その人の心の段階の霊能しか受けられないのである。 常識的に見て、どうかと思われるような人が、○○の神、○○如来のお告げを受けたといっても、そんなものを信用してはならない」 この事は、 「その人の言う事とやる事と違っている人の言う事を信じてはならない」 という事と同じになります。 常識的に見て、その人の人格が疑われるような事をやっている人が、 「わたしはメシヤである」と言っても、また、「わたしは正しい指導者で霊能がある」と言っても、それを信じてはならないという事です。 その人の心の段階しか霊能が受けられない、という事が真実ですから、その人の霊能は当ったり当らなかったりするのが本当です。 低い次元の霊能しか受けられない人に、高い次元のことを聞いても答えられないし、高い次元の人に低い次元のことを聞けば、「そんなことは自分で考えなさい」といって、その人に考える力を与えようとして答えられない場合もあるでしよう。 なぜ、霊能が当ったり当らなかったりするのでしようか。 次元の違いからいいますと、動物界も含めてのあの世の世界は、この地上界よりは上にあります。 上から下を眺めますと、下の事はよく分かります。 低い所から見るよりも、上へと高い所から見ればそれだけ見える範囲が広がってきます。 ある範囲しか見えない人に、その範囲以外の事を聞いても答えられないのが当然です。 ですから、ある一つの事が当ったからと思って何でも聞くと、そのうちに、必ず間違った答えが出てくるのです。 聞かれた人は、自分が霊能で知る範囲以外の事を聞かれたら、正直に 「そのことは分かりません」 と言わなければなりませんが、「あの人はよく当る」という評判をとっていたり、またそのことで金銭を得て生活していたりすると、「分からない」と言うと人が来なくなる、生活出来なくなるという名誉欲、金銭欲が先に立って、つい分からない事も分かったように言うわけです。 日本人は信仰については非常に間違った心理状態を持っています。 一旦、信じ込んでしまった人から、間違った事を言われて実害があっても、間違った事を教えたその人を間違っていると言わないで、自分が悪かったのだ、自分に運がなかったのだと、自分で自分を傷つけ痛めつけてしまうことです。 こういう加虐心理状態が自分の心の中にある間は、「正しく見る」という事が出来ないのですから、良いとは良い、間違いは間違い、とはっきり割り切る考え方を持たないと「正法」も分からないという事になります。 釈尊は、「こういうように言ったら、あの人たちは自分を信するだろうという事を計算をして、言葉を言ってはならない」と戒めていられます。 自分がこう言ったら相手はどう反応するかを計算して、言葉を選ぶという事は一つの詐術です。 霊能力があって多少病気を治したり出来るからといって、すべての人々を幸福に出来る力はありません。 真言密教に凝り、不動金縛りの術を会得したと自慢している人がおりました。 九州で有名なあるお寺にいたのですが、それは正しい方法ではないと私(園頭先生)が注意したのですが、夢中になっている最中でしたから私(園頭先生)の言う事など聞きませんでした。 それから五年してその友人はそのお寺をやめました。 心を治さずに一時霊力で治しても、心が治っていないからまた問題が出てくるわけです。 丁度ゴムマリをギュッと押すと一方がへこんで一方がふくれる。 ふくれたからと思って、そこを押すと今度はまた別なところがふくれる、というのと同じです。 一切の運命は心で作るのでありますから、心を治す指導をしなければいけないわけです。 動物霊は時にあっと驚かせるような力を現わすことがありますが、それは自分を信じさせる手段ですから、そういう霊能にごまかされてはならないのです。 ある霊能力者のところに二十五年間行っている人がありました。 二十五年も通ったのは、一つの問題が解決すると、次の問題が出てくるという事で、次々に問題が出てきていたからです。 行く時に必ず米一升と酒一升と金を若干包んで行く。 二十五年間通っても一向に幸福にならないので、行くのをやめてしまったのです。 そうしたら身体が動けない病人になってしまいました。 あれほど信仰したのに、どうして病気になったのだろうと悩んでいられて、ある人から正法の話を聞き指導を求めて来られました。 身動きできませんから(園頭先生が)そこへ行ったのですが、動物霊に憑依されて霊能力を開いた人たちは金銭欲が強いし、非常に名前にこだわり、今まで自分のところに来ていた人が来なくなったり、また、自分の名前を傷つけるような事をされると、その人に逆念を送る事を平気でやります。 そうすると逆念を送られた人が病気になったり、不幸が起こります。 そうしてまた前のように自分のところに来させようとするのです。 逆念を祓うには、自分の心に光りを入れる以外にありません。 逆念を送られてそれを恨む心を持つと、かえって相手の罠にはまることになります。 そうされても恨まない心になって、それも一つの魂の勉強の過程であったと感謝する心になれば祓う事が出来るのです。 下関に、瀬戸内海航路のフェリーを何隻も持っている方がおりました。 この方をAさんとしておきましよう。 Aさんはある霊能力者を信じていられました。 少し強い風が吹くと、その霊能力者から電話がくる。 「Aさん、いま瀬戸内海を走っているフェリーの船底で、その船から投身自殺した人の霊が暴れている。その霊を鎮めないと船が転覆します。すぐ祈らなければいけないから至急来て下さい」 一回祈ってもらうのが二十万円だそうです。 一隻の船が転覆すれば人命の補償から船の損害から何十億という損害ですから、それが二十万円で避ける事が出来ればこんなありがたい安いことはないと、すぐ走って行かれる。 一年に一回「あなたのところに観音様が入りたいと言っていられるから、お祭りしてあげて下さい」と、 次ぎには「地蔵菩薩が入りたいと言っていられます」と毎年言ってくる。 観音様や菩薩様が入りたいと言われる家は、そうめったにあるものじゃない、なんとありがたいことですか、と言われると、そういう気になってしまって、それを受けて祭ると最低百万円はかかると言うことだったのです。 佐賀のBさんも霊能力者を信じて六百万円使ったといって言られました。 肝臓が悪くなって医者は手術だという事であったのが、正法を知られて良くなられました。 動物霊に憑依されている人の特長は、祈る代償として必ず金銭物品を要求することです。 あの世の高い段階にいられる菩薩界の方が、金銭などを要求されることは絶対にありません。 浮浪霊、地縛霊に懸依された人たちは見えないものが見えたり、聞えないものが聞えたり、夜眠らせなかったりして、耳のはたで囁いたり、腹の中から話しかけたりして人の不幸をよく予言します。 誰々が死ぬとか、交通事故死するとか。 不幸の予言はしますが、こうしたら幸福になるというような事は絶対に言いません。 幸福になると憑いている事は出来なくなりますから、絶えずその人の心を暗い方へ暗い方へと引きずってゆきます。 「ここから飛び下りても絶対怪我はしないよ、嘘だと思うなら飛び下りてみろ」 と言ったり、ある場合は 「死ね、死ね、死んだ方がラクになるぞ」と囁いたりして死へと誘導します。 飛び下り自殺などが多いのは、こういう事も原因しています。 霊能力を持つ事によって人に優越感を持ちたいとか、或は金銭や名誉欲等を得たいという欲望を持っている人には動物霊が懸かり、何かの事で暗い心になっていると浮浪霊、地縛霊が懸ります。 (園頭先生が)高知に行った時、霊能力があるという人が一ぺんに四人「普通の人間にしてください」と言って来られた事があります。 その中心になっていられたのは人の奥さんでしたが、交通事故になって医者で治らないので、ある霊能力者のところに行ったら、 「あなたが来るのを待っていた。あなたは素質があるから修業しなさい。」 と言われて、やっているうちに人の心が分かるようになってきた。 ご主人にお客さんが来られると、そのお客さんの心の内が全部分かる。 こんなことを言ってはいけないと思っているのに、口がひとりで開いてそのお客さんが秘密にしている事を全部「あなたはこうでしよう」と言ってしまう。 全く悪いだけの人という人はいない筈です。 どんな人でも良いところがある筈です。 憑依されて言わされる人は、その人の良いところは絶対に言わないで、悪い点だけを言うという事に特長があります。 そういうわけでご主人の仕事にまで妨害するようになった。 そうして心の中から囁きかけてくる。 「主人と別れろ、おれと一緒に仕事しないか、そうすれば儲かるぞ」と。 その人はご主人と子供さんを愛していられたし、別れて女一人で生活することはとても出来ない。 早くこの霊能力を無くそうという事で高野山へ行かれた。 高野山に着いたのは、もう暗くなってからであった。 電車の終点からの夜道は、足下だけが懐中電灯で照らすように明るくなって、どんどん歩けた。 辿り着いて宿を乞い、示された宿坊へ行ってみたら、その宿坊の屋根の廻りを、苔の生えたような竜が取り巻いて眼をらんらんと輝かしている。 宿坊の中へ入ったら、蛇の腹わたの中へ入ったような気色がして気味が悪くなって、そのまま泊らずに逃げて帰ってきました。 今朝も「行くな行くな」と耳元で囁くのですが、私は早く普通の女になって幸せになりたいし、その声を打ち消してやって来ましたと。 この人は理性知性がしっかりしていたから、正法によって当り前の人間にかえることが出来ましたが、知性理性を失っている人たちは、夫婦不調和になるのを承知の上で霊能力を信じて行くのです。 信仰していて夫婦不調和の人達は、その不調和の心の隙を甘い言葉で誘惑され易いから、気をつけることです。 「なぜ浮浪霊、地縛霊だけが憑依するのか」 人間は死んですぐそれぞれの(あの世の)世界へ行くのではありません。 「死ぬ」という自覚がなくて死んだ人たち、或は突然の事故で死んだ人達は、自分が死ぬという自覚がなくてその魂は肉体を離れます。 肉体を離れた魂は待機所へ行き、ここで現象界との意識の切替えをしますが、死ぬという自覚がなくて肉体を離れた魂は、あの世で気がついてみると手もあり足もあるし、死んだという自覚がないし、肉体を持っていた時のままの意識を持っているわけですから、生きていた時のことを反省せよとすすめられても、そんな事をしなくても生きてきたんだ、というので反省しないわけです。 反省が終った時に、自分で自分の行く先を決めてある人は天上界へ、ある人は地獄界へと行くのですから、反省が終らなければ何時までもその魂はその中間地帯でふらふら、さ迷っていることになるわけです。 そういう霊を浮浪霊といいます。 そういう霊は地上に対する執着が非常に強いから地縛霊ともいいます。 こういう霊は死んだ自覚がないのですから、地表面で生活していた時の昔の仲間の事を思い出して、そこへ近寄って行きます。 波長が合う人があると、そこへ寄りそって行くし、苦しんでいる人は助けてくれと救いを求めるし、 「わしのうちに来いよ」 と誘われると死の誘惑という事になるわけです。 天上界の高い段階へ行った霊は、そう簡単に地上の人に憑依しません。 天上界の計画にしたがって、天上界の消息を地上の人々に知らせる役目を持って生まれてくる人たちがあります。 そういう人たちは小さい時から訓練されて、成長するに従って天上界の状態を正しく伝えるようになっていきます。 例えば「天と地とを結ぶ電話」のリチャード・ゼナー氏などはその例です。 スェーデンボルクもそうですが、スエーデンボルクの場合は、スエーデンボルク自身の魂が天上界を色々見て来ることが出来たところに素晴らしさがあります。 高橋信次先生も偉大な使命を持たれた方でした。 その人の心のテープに記録されている過去、現在と、それによって起り得る未来の出来事の全てを知り、また天上界から地獄界から全てのところを自由に見て帰ることが出来る霊能力を持っていられました。 昭和48年9月、奥志賀高原でインド当時(お釈迦様の時代)と同じ方法で修業しようという事になって、十人ばかりで行った時、高橋先生は、私達が反省している事と、心のテープに記録されている事が合っているかどうかを見比べて指導されました。 私(園頭先生)は反省すべきことは全部反省していましたから、 「あ、この事は何年何月何日に反省が終っていますね。黄色の線が引かれて、日付が書いてあります。」 と言われたものでした。 心のテープに記録されている過去の事実と、今、やっている反省が食い違っている人は、 「あなたは何年何月何日にこういう事があって、こういう事で苦しんだじゃないですか」 と皆言われたものでした。 一人一人の心まで全部知るカを持っていられました。 天上界の事は、その人の心が高まったその段階までしか、知る事が出来ないというのが掟ですから、人柄もさほど良くないと思われる人が言葉だけは素晴らしいとしたら、その言葉はその人自身のものでなくて借りものであると見て間違いないという事になります。 霊能力者の言葉にそれぞれ段階があるのは、結局その人の心の段階しか知る事が出来ないというところにあるわけですから、万能だと信じて全面的に頼ると必ず騙されるという事になります。 -魂を向上するには目常生活の実践以外にはない- 釈尊は 「病気治しができたからとて驚く必要はない。そんな事は動物霊でもする。」 と言っていられます。 釈尊が神はあるかないか、あの世はあるかないか、あるとすればどんな世界か、というような質問に対して答えられなかったのは、そんな事は分からなくても、日常生活を八正道によって実践すればそれで魂は向上させる事が出来るのである、という事を教えられたのですが、答えられなかったという事を後世の人たちは、知られなかったから答えられなかったのであるとか、また神もあの世もないから答えられなかったのである、と解釈したために仏教は「無神論」であり「無霊魂論」であると言われる様になったのであります。 あの世が分からない間はこの世の事は手につかないという状態になったり、あの世の事を知りたいと思って、この世で今しなければならない事を怠ったりしますと、折角、肉体を持って魂の修業のチャンスを与えられたのを無駄にする事になります。 まして、霊能力を持つ事によって何らかの利益を得よう、人を支配して人の上に立とうと考えていたとすれば、それは心に大きな罪を歪みをつくる事になります。 この世に肉体を持って生まれてきた目的は、あくまでも肉体を使って魂の向上、心の安らぎ、不動心、自已確立を得るところにあるのですから、その目的に反する心を持ち、行為するという事は罪になります。 あの世が分かるという霊能カを持っている人があったとしても、それはその人の心の段階の程度にしか、即ち一部分しか分からないのですし、一部分しか分からない人を通して全部を知ろうと思ってもそれは絶対出来ない事です。 スェーデンボルグとか高橋信次先生のような方は、(天上界から)そうめったに出てこられませんし、それらの方々の本を読んで、これは信ずべきであると思ったらそれを信じて、あとは日常生活をしっかり実践すればそれが一番正しいのです。 霊能力に興味を持って自分も霊能力を持ちたいと思ったからといって、すぐ霊能力が得られるというものではありません。 霊能力を持ちたいと思っても霊能力が得られないのは、その人の心の問題もありますが、守護霊がそれをさせないように守っているからです。 その人の我執の念が強くて守護霊や指導霊の力ではどうにも出来ないという事になると、その人の我の執念に相応した低い霊と同通する事になります。 断食したり滝に打たれたりしている人の、執念の強さを見られると分かると思います。 天上界からの正しい霊との同通のある人たちは、謙虚な敬虞な日常生活を大事にしてゆくなかから自然に与えられてゆくものです。 霊能力があると自称しているK女史は、ある人が郷里に帰って親孝行したいといった時に、 「あなたは郷里に帰ったら不慮の事故で死ぬ事になっているから帰ってはいけない」 と言われて、その人は、人手が足りなくて両親が困っている事を充分に知りながら、東京にいてその親を悲しませています。 その両親は私(園頭先生)に言われるのです。 「親は困っているのですから、早く帰って親孝行しなさいというのが本当じゃないでしょうか。 人を幸福に導かなければならない宗教指導者が、そうしたらあなたは死ぬと脅していいものでしょうか。 そのK女史は、親は困っているのですから、早く帰って親孝行しなさいというのが本当じゃないでしょうか。 人を幸福に導かなければならない宗教指導者が、そうしたらあなたは死ぬと脅していいものでしょうか。 そのK女史は、あなたが帰ったら両親も死ぬ事になるから、あなたは両親の下へ帰らないのが親孝行ですよと言われたというのです。 私たちは、もうその子はいなかったものと思います。」 とそう言ってその年老いた老夫婦は、心で泣きながら仕事をしていられます。 またある人は、Hという自称霊能力者から 「あなたは私の仕事に協力するように使命づけられて、生まれてきているのである」 と言われたために、そのH先生のやっていられる事が間違っているという事が分かっているけれども、そのH先生から離れるわけにゆかないと、いつも心を暗くして泣いているというのです。 霊能力に片寄る事の危険性を訴えて来られた人たちの手紙を見ると、その人たちが言っていられる霊能力者とは、本当は霊能力を持たないのに霊能力があるように見せかけている「自称霊能力者」であるようです。 動物霊や浮浪霊のやる事も自已本位ですが、自称霊能力者、似非霊能力者も極端に自己本位で、人を利用する事だけを考えて決してその人のためを思ってはいません。 利用するだけ利用して、都合が悪くなったら平気で人を捨ててしまいます。 気の毒なのは自称霊能力者を信じた人です。 自称霊能力者は人の心の自由を束縛し、行動の自由も拘束します。 正しい霊能力者はそういう事は絶対にしません。 もしその人にある不幸がくる事が予測されるならば、どうしたらその不幸を避ける事が出来るかを教えます。 私の言う事を聞かないと不幸がくると、恐怖心を与えるような事は絶対にしないのです。 ついでに、正しい指導者とまちがった指導者の、もっとも簡単な見分け方をお知らせしましょう。 間違った指導者の話は、人を強制して何かをやらせる、したくない事をさせられる、というような圧迫感を感じさせますが、正しい指導者の話は、聞いているうちに心が楽しくなり、そうだ、そうしよう、そうすれば必ず良くなるのだ、というような強制させられるのでなくて、自分から自発的に喜んでそうしなければならないという勇気を起させます。 もう一つの見分け方は、間違った指導者の話は、聞いている時はなるほどと思っても、終ってしまうと何にも心に残りませんが、正しい指導者の話は聞いている時も楽しく、後になるほど何時までも心に深く感激が残り、自分で自分の運命を変える行動にまで駆り立てる勇気を持たせます。 霊能力者に頼る心があっては自已確立は出来ませんから、自分の事については自分で考えるという心の強さを持つ事が大事です。 正法を知って自己確立の道を日々歩んでいる人は、みな顔が明るく輝いています。 霊能力に頼っている人は自分に自信のない人、自分の事を自分で決める自主的な考え方を持たない人ですから、常に心の中に不安があります。 |